てんみくろん

旅〜その他〜

平成8年イスラエルへの不思議な一人旅を終えて20日後には娘理恵と今村興一君を伴い、息子毅司が暮らし、老後は家族全員こちらで暮らしてもいいねと夫と語り合っていたオーストラリアへ旅立った。ゴールドコーストで生活していた息子を加えて4人で地球の臍、エアーズロックへの旅をし、ここでも数々の不思議体験をした。
イスラエル―オーストラリア―日本国内(北海道を除くほとんどの場所)―台湾、と平成8年は語りつくせぬほどの不思議を体験し続け、夫の発病から始った非日常の旅を順次書いていこうとしていたのだが、オーストラリア編を書こうとしてもなぜか筆が進まない。一つ一つの出来事は強烈なインパクトで今もはっきりと脳裏に焼き付いているにもかかわらず、書けないまま2ヶ月が過ぎてしまった。

そして今日は2000年4月18日、日常生活の中で起きてくる出来事の不思議を持て余している。地球の空気がどんどん変化している今日という日を生きていて、今更4年前の自己体験を追確認する必要があるのだろうかとの思いが湧いてくる。2000年に入り世の中は大きく変わってきている。その変化の波は私だけでなく、気付くか否かは別として人類全てに起きているであろう。特に4月に入ってからの変化は激しく,速く、地球の意志、宇宙の意志をいやがうえにも、日々身体や心がキャッチしていく。身体や心(魂?)の変化スピードについていけない意識が、取り残され右顧左眄。そして気付く。「今を生きよう」と。
平成8年の旅は平成8年を生きていた私に必要であった体験であり、それは過去の出来事。平成12年の今日、特に物理的空間移動をしなくても、日々日常が非日常を産み、不思議体験の場が提供されている。友人UFO氏や晶美嬢のように、見えたり聞こえたりしないけれど、私は夢で多くの事を見せられ、導かれたり感じたりしている。それをそのままに書いていこうと思う。それが「今」を生きる、「今」を楽しむことに通じていくような気がする。起きてくる出来事や夢で見せられる出来事の表象に囚われ、その奥に潜む本来の姿やメッセージを読み取れないことが多々あり、「何の意味も無いただの夢物語」や「戯れ事」に終わるかもしれないが、諸兄諸姉よりご意見ご指導を願えれば幸いである。

2000年2月26日
何の影響なのか分からないが,最近通り過ぎていく一つの思考がある。「地球の全てが反対しても、私は私の真実、想いを信じて歩こう。信じていることを捨てたりしないよう、自分を見つめていこう。」こんな言葉が時間や空間とは無関係に、突然頭をよぎっていく。考えた末に意識が生み出した言葉ではなく、ボーッとしている時、急に誰かに耳打ちされるような形で言葉が飛び込んでくる。自分で自分を不思議に思う。
突然表れる不思議な言葉、でもこれも私なのよねと、自分と会話をする。馴染みのある私と馴染みの無い私、どちらも私。私って何者?と訝しりながらも、全体としての私を許し、愛し始めている。


2000年3月26日
人間社会がおもしろくなってきた。あちらでは不景気で職を失い、惨めさを愚痴っている人がいる。こちらでは地球規模の経済躍進の大渦に乗って、目をギラギラさせている人がいる。そちらでは今日も明日も関係なく、退屈な一日に欠伸をかみ殺している人がいる。その横では若者達が一時の歓びに我を忘れている。その隣では、地球はもう駄目だと念仏を唱えている集団がいる。2001年5月5日にはアセンションだ、光になって故郷へ帰るのよと夢見る瞳を輝かせている人達がいる。そしてそれらをキョトキョト見つめながら、地球人ってすごいよねと半ば呆れ、半ば驚き、人間のもつ創造力の多様性、凄さに感動している私がいる。同じ地球に生きているのに、一人一人が異なる世界観を構築し、自己の幻想世界に遊んでいる。じゃあ、私の世界は?雑多な映像に囲まれて周りで起きてくる出来事は、すべて幻想、バーチャル・リアリティ。マウスでクリックすればどんなビジョンもリアリティをもち、眼前に現われる。すべてはゲーム。飽きたらリセットすれば良い。この感覚に驚き、楽しみ始めている。今までは避けていたインターネットの世界に自らの意志で入ろうとしている。無の哲学へ入り込みつつ、体験として情報化未来社会を楽しんでみようとワクワクしている。インターネットと般若心経、多様性の中で遊び始めている。右も左も、上も下も、どれもOK.どんな考えも必要だから生まれ、存在している。この世に存在するどんな生命形態も必要だからそこに居る。無駄無益な生命は皆無である。

インターネットに関する本を買った途端、目に入る光景が大きく広がって、こんな考えが急にやってきた。本を買い、近くの喫茶店でお茶を飲みながら通りすぎていく人々の流れを暇に任せて窓から見ていたら、不思議な白日夢が広がった。

『白日夢』

 通り過ぎていく人達の首から上をすっぽり包み込んでいる球体が見える。球体の中は自ら創造している仮想現実であり、一人一人が皆異なっている。友人、恋人、夫婦、一見一体であるように見えて、それぞれ誰もが自分の固定意識によって作り上げた仮想現実の球体から外を見ることができなくて、共通するわずかな価値観の箇所のみ、その時間だけ重なり合ってはいるものの球体の大部分は自分だけの世界。その中で怒ったり、笑ったり、泣いたり、悦んだりしている独り芝居。10人の人がいれば10通りの正邪の意識がある、10通りのバーチャル・リアリティがあると、言葉として理解していたが、目の前を通り過ぎる人達の頭を包んでいる球体が見え、その中でブツブツと不平不満を作り上げていき、自分だけの現実を創造していくプロセスが見えてきた。友人、家族、恋人だって一緒にいても考えているのは別のこと、それぞれが表面上は相槌を打ったりしながらも,皆そこに居て、そこに居ない。突如やってきたこの白日夢の映像がおもしろくて、一人ニヤニヤしてしまう。そうか、そういうことだったのか。いつ頃から人間は自分だけの幻想を持つようになったのだろう。太古の人達には時計も無く、学校も無く、ビジネスも無かった。ただ生きることに集中していた。自然に逆らっては生きられず、自然と共に生きていた。意識をそちらに向けると、また映像が広がる。ああ、この人達は自然全体を包んで集団としての球体の中に居る。奪い合うよりは分かち合う、憎しみ合うよりは愛し合う、大きな大きな共同で創造した球体がそこにあった。人間が自然から離れていく過程で、そして大小とか多少、美醜、善悪、正邪などの「差」を生み出す観念や知識を獲得する過程で、その球体は小さく分断され、個になっていった様子が映像として見えてきた。だから寂しいのね、だから苦しいのね、だから悲しいのねと、私は通り過ぎる人達をも内包する私の球体の中で、一人納得してしまった。それにしても脳が見せてくれるバーチャル・リアリティを体験して、脳って何?と次なる興味が出てくる。今度は脳の本を買ってみようかな?

2000年4月2日
100%自分を信じきれれば、自己の想いから100%恐れを手放せれば、その想いは現象化する。そのことを少しずつ体験してきて、言葉としてでなく真実として身体が認め始めている。全ての恐れを手放しなさいと、日々出来事や体験が用意されていく。人と会えば会うほど、人々がいかに恐れをしっかり握りこんでいるかを見せられてもきた。少しでもその人達に自分の恐れに気付いてもらえるよう、私は、実体験を交えて話し続けてきた。だからといって、私が恐れをすべて捨てられているかというと、そうではない。一日一日、薄皮を剥ぐように表面から深部へ向けて、自分の抱え込んでいる恐れに気付かされ、それを手放すというプロセスを歩いている。

『夢』
お城でパーティが開かれる。パーティに参加すべく出かけるが、時間に遅れてしまい(出かける前にやっておかなければいけない何事かが会った様子)ドレスに身を固めた私を迎えてくれる人は、誰も居ない。アニメで見たシンデレラのような身体とドレス。でも踊ってくれる人が居ない。仕方なく城の小部屋でドレスを脱ぎ始めた時、青年が入って来て、「どうしてドレスを脱ごうとしているの?一緒に踊ろうよ」と優しく手を出してくれる。私は嬉しくてその青年と踊る。何一つ不足するもののない完全至福の中で、踊り続ける。

目覚めてもあまりの心地よさに、うっとりと夢の世界に再度入るべく、その余韻を抱きしめる。「肉体年齢の若返り」を宣言した私は、夢の中で先行体験をしたようだ。夢の中の私は年も若く、身体も美しかった。現実の自分の姿と、夢の中の私とはまるで別人であるが、想いは最初4次元以上の高次元で形成され、その後3次元空間に降りてきて、具象化するということだから、楽しみに待っていよう。

午前中、夢でうっとりしていた心が午後になって妙にざわつき始める。家に居ることに耐えられず、意味不明なまま、心を落ち着かせる為に外へ出る。映画でも見ようかと行ってみたが、その時間見たい映画はやっていなかった。足が書店に向かう。時間はたっぷりあるので、端から端までゆっくりと見て歩く。読みたいと思うタイトルに出会わず、帰ろうかなと思ったその時、足が止まり手が伸びる。「宇宙からの黙示録―オイカイワタチとは何か?」と「宇宙船、天空に満つる日―宇宙からの黙示録・完結編」(共に渡辺大起著 徳間書店)の二冊。本来この類のタイトルは好きではない。不安を煽るような本は読みたくないのに、なぜこの本を手にとってしまったのか?パラパラと頁をめくる。不安を煽る内容ではなさそうだったので、購入して帰る。往路は不快なざわめきが体内を蠢いていたのに、復路は力強いエネルギーに変化していることに気付く。この本からのエネルギーだろうか?帰宅してすぐに読み始める。頭頂にツーンとしたエネルギーが入ってくる。

1983年に出版されている最初の本を一気に読み終えてしまった。地球の大変革に際し、新生地球と地球人類を守るべく1960年から1980年までの20年間にわたる、作者を含めた人達のエネルギーワークの行動記録であった。
地球は悠久のかなたより「ライマカタの地軸の星」であったそうで、そこにおいて人類は形、物質に重きをおき、強引に押しつける心の状態で、神に全託していない。形の威厳が満ち溢れ、権威・権力の威厳、宗教の威厳、指導者の威厳、金力の威厳、学問・知識の威厳、言葉の威厳、教育・学歴の威厳、活字の威厳、態度・行動の威厳、姿・形の威厳、科学・文化の威厳、衣服の威厳、住まいの威厳、食物の威厳、数え上げれば際限が無く、この世の形は威厳の集積と化し、人類の心は破壊に向かっていき、これまでに何度も世紀末預言が出されてきたように「失敗の世の終わり」を繰り返してきたのだそうです。
アトランティスやムー大陸の海没は、この「失敗の世の終わり」によって引き起こされた事実であり、今回地球は7回目のその時を迎えているらしいのです。20年におよぶ彼等のたゆまぬ活動によって、人類意識は大きく変わり「権威の崩壊」は国家レベルから個人個人の心のレベルまであらゆる面に及び、神に全託し、神の愛を受け入れる心の状態である「ラタカルタの地軸の星」へと移行できるように下準備は完了しているとしています。そして下準備は完了しているものの、最後は地球人一人一人の自由意志が尊重されるようです。
また『このような段階では(ライマカタの地軸の星)、人々は心の中の影の思いに耐えきれず、それを形として悪として外へ出し、お互いにぶつけ合い、憎悪が憎悪を生んで時には目を覆うばかりの悲惨な光景が繰り広げられる。しかしこれは魂の進化にはどうしても必要な段階であり、人々はこの段階でさまざまな快楽や苦痛、喜びや悲しみを形として身に受け、何度もの転生の過程で、自由意志の大切さとその責任を学んでいく。そして人々が自由意志を使えるレベルになった時(これは創造神の判断による)、「神の儀式」が行われ、その遊星は次の段階である「ラタカルタの地軸の星」へと生まれ変わることができるのである。』と記載されています。

平成6年以降、私は仕事を失い、夫を失い、それまで正しいと信じてきた観念の欺瞞に少しずつ気付かされ、多くの人々との出逢いによって見たり、聞いたり、触れたりの体験を続けてきた。無智であるが故、体系的に学ぶということができず、盲滅法で、出逢いの場が学びの場となり、なかにはおどろおどろしい出来事や恐怖を煽る形の宗教家やあまりにも奇想天外、どのように受けとめれば良いのか、私の意識では捉え切れない出来事など、ごった煮状態のなかを手探りで歩いてきた。この本を読むことで、今日の意識変革ムーブメントの源へ辿り着き、個々バラバラに入ってきていた情報が融合し、絡まり縺れていた糸がスルスルとほどけていき、ストンと肚に入っていった。
そして先日、有珠山噴火のニュースを見ていた時、理由も無く涙が溢れ「いよいよだね」と口にしていた。その理由がこの本の中に見つかった。地球および地球人類は過去6回「失敗の世の終わり」を体験しており、7回目のチャンスの今回、神々のレベルでは地球および地球人類を救出することが決定され、彼らはその御礼も兼ねて5ヶ所で「神の儀式」を執り行っています。その内1ヶ所は有珠山にある神社と記載されていました。有珠(うす)とは「す(素)が産まれる」を意味していますし、有珠山の東南には「チキウ岬」があります。鳥肌が立ってしまいました。目前に迫っている「最終仕上げの時」をこの目で、この身体で、この意識で体験できるかもしれないという幸福を噛み締めています。

2000年4月8日
『夢』
私は突如変化した。なぜこんなに急に変わったの?昨日と繋がっている私はどこへ行ったの?この変化、嫌じゃないけれど、どうして?急すぎるよ。簡単に変われるんだ。誰でも変われるよ。でも、どうやって?

これまで身につけてきた価値観や意識だけでなく、姿、形まで、一夜にして変わってしまった自分の存在に戸惑っている状況を、繰り返し繰り返し、夢で見続けた。「その日」は確実にやってくることを、強く意識が受けとめている。

2000年4月9日
ベッドサイドの灯りを消して、眠りの体勢に入っていく。意識は眠ることを選択しているのに、脳の内部では何事か話し続けている者がいることに気付く。誰が何を喋っているのだろう?意識をそこに合せる。私を無視して「その人」は話し続ける。

(1) 「夢に表われる言霊を使いなさい。」

(2) いくつものインスピレーションが脳に入ってくる。情報が入る都度、私の喉に粘性液が溜まる。痰のようではあるが、少し違う。喉と鼻の間をいったり来たりで咳込む。無理にもその液を吐き出さなければ、咳が止まらない。(現実に私は激しく咳込み、とても苦しい。喉に溜まる液を吐き出す為に、起きてタオルをベッドに持ち込む。訳が分からないが、私は脳が見せる映像や言葉を追いながら、咳込み、タオルに吐くという動作を続ける。)
人間の臓器売買をしているかのようなインターネットビジネス。IT革命の行き着く先。私の脳はどこからこの情報を引き出してくるのだろう。容赦の無い冷徹なビジネス世界。そこに人間の愛は介在しない。どこがどれだけ有利か、ただそれだけで世界のビジネスは進んでいく。サイバービジネスの過酷さが私の身体を傷つける。自らの意志で一つの情報を取り寄せる。喉にストンと液が溜まる。咳込む。咳が止まらない。涙を流しながら、液を吐き出す。(現実の私の行動)
「100の情報より一つの体験を大切にしなさい。」情報が飛び交い、情報だけで企業が、人が死んでいく。愛のないビジネス。この流れは人を破壊し、企業を破壊する。IT革命の行き着く先は、愛の欠如したビジネスを産み、人間を破壊し尽くす事で、ビジネスの終焉及び資本主義の終焉をもたらす。心を失ってお金が消え、地球は新生地球への移行の為、大破壊が全地球で実行される。

(3)    男の人から旅に誘われ、車で出かける。以前来たことのある場所ではあるが、誰と来たのかは思い出せない。海に面した突端で車は止まる。私が座っているシートがスルスルと天空に引き上げられ、私は車の上方に座ったままで、車は空を飛び始める。

 この状況を何と呼べばよいのだろう。夢?幻視?それとも一種のチャネリング?意識ははっきり目覚めており、現実に咳は激しく襲ってくるし、向かいの部屋で娘が長電話をしているのも聞こえている。私は眠っているわけではない。不思議な体験の理由を考えてみても、私に解かる筈もなく、ただ「100の情報より一つの体験を大切にしなさい。」というメッセージを感謝して受け取ろう。
 ただ何となくこの体験を通して感じることが有る。私自身が持っている言葉の概念および数が少ない為に描写する字句に限界があり、このような形になっているが、(2)の体験については、誕生―成長―衰退―崩壊―誕生という一つの生命体の流れを現しているように受けとめている。
 遠心的に広がっている科学および物質偏重の流れが、すでにその最終局面に向かって加速していることを伝えていると私は受けとめている。行き着く先は崩壊を経て源である点に収束する。破壊し尽くすことでしか、もう源への回帰はできないということであろうか。その日をより速く、確実なものとする為の肥大化が進行している。悪いことは何もない。無駄なことは何もない。ひたすら源への道。そして(3)は次元上昇を意味している?

アイヌへの旅 T

2000年11月10日
午前1時半にベッドに入ったものの神威岬からの波動が私を包んでおり、額にエネルギーが渦巻いている。一睡も出来ず、午前3時半ノロノロと行動を開始する。すでにアイヌへの旅はイスラエルの時と同じように、出発前の自宅から始まっているようだ。暗闇の中、午前4時10分、リュックを背負って家を出る。午前6時羽田空港に到着。午前7時ANA53便にて千歳空港へ。千歳の空は南西(与那国)から北東(神威岬)に向けて何本もの龍雲がくっきりと出ている。龍雲の顔は1箇所(神威岬)に集中していて圧巻である。
ニッポンレンタカーで車を借り、北海道神宮を目指す。2度目の参拝である。去年の夏、UFO氏からの電話で「浜ちゃん、明日午前10時、羽田へ行ってくれないか。運賃、宿泊費、食事代の一切はこちらで用意する。俺の代理として北海道神宮へ野津夫妻と行ってもらいたい。浜ちゃんの感じるまま御神業をしてきて欲しい。」に応えて翌日、北海道神宮へ参拝したことを思い出す。あの時は野生の蝦夷りすの出迎えがあったが、今日はキタキツネのお迎えだ。長いしっぽがふわりと跳ぶ。その可愛らしさにうっとりする。神宮に入ると神官、巫女達が正装で本殿から並んで出てくる。まるで私達の到着を待っていたかのように思える。これまでにもこうしたタイミングの出来事はしばしば起こっており、もう驚くこともないが、平成8年2月1日宮崎の宇土神宮参拝での出来事がダブって思い出される。私の霊性への旅はこの宇土神宮から始まったのだということにあらためて気付く。豊玉姫命のエネルギーを受けて、私はイスラエルへ旅立ったのだった。

参拝後、神威岬へ。途中で見る地形の不思議さに心は踊る。同時にかつてニチイの依頼で帯広に、次いで札幌に店を出したことも今日の私と無関係ではなかったことに気付く。真冬の北海道、2月に帯広店をオープンした時、ニチイの担当課長が私を旅に誘ってくれて案内されたのが釧路湿原、根室、ノサップ岬(日本最東端)だった。樹氷やダイヤモンドダストなど自然が織り成す神秘なまでの美しさに、ただ、ただ感動していたのだが、それらの出来事一つ一つに意味がある、意味があったことを、今私はゆっくりと噛み締めている。

積丹半島への海沿いの道で見る奇岩は、どれもさざれ石で出来ている。大地の不思議に目を奪われつづける。この地も与那国に似て、ほとんどの岸壁に動物達の顔や身体がくっきりと見て取れる。夕方4時ごろ神威岬に到着。入り口手前、岬の首に当たる部分にひっそりとアイヌの神像。目が生きている。この地へ来たことの許しと愛と感謝を伝える。このアイヌ像の前に立った時、携帯電話が鳴り、息子からのメールを受け取る。与那国の剛君から私当てに電話が入り、折り返し電話をして下さいとのメッセージ。剛君が私の動きに対し、何かを感知した模様。アイヌ像の前に立った正にその瞬間に電話してきたことがそれを物語っている。さすがだね。でも私は私の神業を優先する。折り返しのコールバックをしなくても、きっと彼はこれからの私の行動を感知するであろう。晶美曰く、「この神は長い長い時間、ただ一人で待ち続けていたと言う。何千年、何万年という時間の流れの中、今日という日を待っていた。これまでに多くの霊能者達が来たことは来たが、意味を解ってはくれなかった。淋しく悲しい想いで待っていた。来てくれてありがとうと言ってるよ。」
挨拶を済ませ岬の突端へ向かう。入り口に差し掛かると「女人禁制の地・神威岬」というゲートがある。目的を告げ、入る許しを得る。「心、引き締めて下さい。腹に力を入れて下さい。フワフワしていると、怪我をする危険性があります。」と晶美。ゲートを潜ると空気が変わる。圧倒される。突端への道はまるで動物の背中の様。大地の呼吸を感じる。足底から生命が伝わってくる。「写真は神業が終わって、帰りにして下さい。神業が終わるまでは気を散らさないで。」と再度、晶美からの声。冷たく刺すような風が吹き荒れる。一歩一歩、足元に神経を集中しながら前進する。神威岩と対面する。「ここはママの神業。森本さんは地球として、ママのサポートに入って下さい。」四方八方から吹き荒れる鋭く激しい風のため、身体を固定する場所を探す。両足を肩幅に広げ、どんなに強い風にも姿勢が崩れないようにポジションを決め、神威岩と自分のハートを一直線に結ぶ。瞑目し、意識を神威岩に集中する。神威岩と与那国の立神岩を意識で結ぶ。額の中央に大きな穴が開く。その穴から私の意識が発する光のビームが伸びていき立神岩をとらえた時、私は球体の光となる。私の中で二つの岩は一つとなる。南北の調和、東西の調和、寒暖の調和、光と闇の調和、……・。創造主としての光の球体と化した私の意識の中で、総ての正反意識を調和させ、新たなる調和の光を生み出し、新しい世紀へ向い人類、地球、宇宙の進化発展の現象化を祈る。
それぞれ持ってきた写真や石、シールなど与那国の波動を発する記念の品を荒れまく海に流す。たたきつけるように荒れていた風の動きが急に止む。合掌し、心よりの「ありがとう。」を伝える。

帰りの道々でモアイ像に似た形で盛り上がっている岩の連なりを見る。単独で生きている大地などなく、すべては繋がっていることを、現実の大地が教えてくれる。「すごいよ、ママ。与那国の中心に海上から光が真っ直ぐに降りていき、地下から上昇する光と交差したわ。そして光はそこで四つに分かれ、それが卍型を創り、猛烈な勢いで回転しているよ。」「北海道の中央にエネルギースポットがあり、そこを開けてくれと言っている。でもそれをやるだけの時間が今の私達にはないので出直してくるしかないね。そして今の私は北海道の声を聞きたくないのよね。聞いてしまうとやらざるを得なくなる。やるとペルーへ行く流れが消えてしまう。私はペルーを優先したいので、北海道の声には耳を閉ざすよ。」帰りにアイヌ神像に終了の挨拶に行く。森本氏「一つの神業は終わったが、北海道はそれだけでは終わらない。本腰を入れてやる気があるのかどうか、覚悟があるのかどうかと言われたよ。浜さん、どうする?」「覚悟とか大層な言葉は私にはないよ。宮古島へ行ったのも、覚悟をして加わったつもりはなく、ただ晶美から来てよ、ママが必要という言葉で私はスタートした。今回も自分で解って、覚悟してここへ来たつもりはない。ただ、一連の流れで私はやってきた。今感じることは、私はこれからも何回かこの地を歩くだろうということ。北海道の大地に今回とても惹かれている。それが何なのかまだ解らないけれど、私はきっとこの地を歩くだろうという自分の姿が見える。だから覚悟はないけれど、私はやるのでしょうね。」と答える。自然体で私は行動していくだろう、私を識るためにー。

宿泊所を探しながら余市方面へ。夕食で日本酒を少し飲み、不眠の活動をしていた為か酔いが早く、眠い。宇宙飛行士毛利さんの生誕の地らしく「宇宙の湯」という温泉を見つけたが、私はパスしてひとり民宿に残る。朝食附き素泊まりで4,500円、海辺の小さな民宿だ。窓の外はそのまま砂浜が広がっている。硝子越しに波の音、風の音を聞きながら布団に入る。寒々とした漁村の光景が脳裏にヴィジョンとして現れる。北海道?いいえ、ここは北海道じゃない。もっと北のほう?樺太?シベリア?目を閉じたままヴィジョンを追う。那覇にいる時なぜか北海道を感じ、こうして北海道へやってきた。そして今日は北海道のさらに北方を見つめている。どういうことよ?さらに北を目指して私は進むのだろうかと、夢うつつに首を傾げている。

2000年11月11日
午前7時半、朝食。8時過ぎ宿を出る。雪が降っている。「ニュースで35センチの積雪だと言ってるから、ともかく暖かくしておいでよ。」と森本氏から前もって連絡を受けてきたのだが、昨日は嘘のような快晴だった。山形の快晴と連動していた。今日は降るのねとマフラーをリュックから出して、寒さ対策をする。今日の行動予定は特にない。昨日道端で見た看板「フゴッペ洞窟」が記憶に残っている。なんだか解らないけれどそこへ行ってみようということになった。宿の近くに崖があり、その中腹に小さな赤い鳥居が見える。気になったので立ち寄ってみるとそこは「大川遺跡」だった。アイヌの人達に導かれていることを感じる。参拝を済ますと、どんよりと低い雲に覆われていた空が割れ、太陽が顔を出してくれた。透明なモノトーンの光の中、鴎たちが飛翔する。

フゴッペ洞窟に到着。遺跡展示会館が洞窟を刳り貫いた形で建てられている。会館に入ることで洞窟の内部に入れるようになっている。洞窟を被っている小山全体に不思議な動物たちの顔が浮き出て見える。どの顔も優しく暖かい。与那国の大地が織り成す動物たちの顔は珊瑚礁だからかもしれないが、硬くて鋭かった。南の大地は硬くて鋭く、北のそれは優しく、丸く、暖かいと感じる私は変かしら?
館内に入る。壁面の絵や彫刻を見ていると足下からエネルギーが入ってくる。全身を還流するエネルギー。壁面から声なき声を受け続ける。腹部がぐずぐずし始め、喉が締まってくる。我慢できず館外のトイレに走る。吐く。軟便が出る。外は一面ぼたん雪の世界。時間の止まった純白の世界でしばし私も雪となる。再度館内へ。物言わぬ壁面からの波動に、内なる我が共鳴している。メッセージの内容は分からないまま、身体がそれに反応し何事かを感受している。瞑目し、創造主として光になり、この場のエネルギーと一体となる。感謝を伝え外に出る。館内の資料で近くにストーンサークルがあることが解ったので、そこへ向かう。

止んでいた雪がストーンサークルに到着するとまた激しく降り始める。西崎山ストーンサークルへの石階段を登っていく。晶美、「ママはこの地でシャーマンのボスをしていたよ。若いシャーマンたちに囲まれているママの姿が見える。」「えっ?シャーマン?シャーマンやっていたのなら、もう少し見えたり聞こえたりしてもいいのにね。」と私。ここのストーンサークルは墓場であったことを知る。死者の魂が、やってきた星へ迷わず真っ直ぐに帰れるようここで儀式が行われていたらしい。サークルの中央に入り座っていた晶美の「ここはママの場所のようよ。ママに座って欲しいって言ってる。」の声で、私は中央に座り瞑想するが、残念ながら何も感じない。調和の光を放射して感謝を伝えるのみ。「ママはやっぱり北極星なのね。ここは北極星とつながっているよ。」激しかった雪が止む。

流れのままに小樽の「手宮洞窟」へ向かう。車が走り出すとまたしても激しい雪が降り始める。先ほどまでのぼたん雪ではなく小さな結晶状の雪で、フロントガラスにぶつかってカチンカチンと鳴っている。途中熱いコーヒーを飲みたくなり海沿いのコンビニに入る。雪を避けるために入り口の扉が二重になっており小さな空間がある。そこで紙コップのコーヒーを飲みながら、見るともなく前景を見る。視野いっぱいに広がる白いスクリーン。吹雪の海、白くうねりながら押し寄せてくる波頭、激しく舞い散る雪片、轟く波と風の音………。懐かしい。以前同じ映像を私は見ている?懐かしさに溶けていきそうな心で記憶を探るが、何も見出せない。でも私はこの景色を知っている。……シャーマンね……私がシャーマンね……。晶美の言葉「ママはシャーマンの祖でシャーンマヤと呼ばれていた。」……その頃の原風景なのかもしれない。トイレを借りる。便器に座っている時、平成9年に読んだ「一万年の旅路」の内容らしい映像が急に脳裏に入ってきた。ホピ族の娘が、代々口承されてきた彼らのストーリーを丁寧に著した本である。

アフリカからアジアを通り、度重なる地震や津波などの災害に立ち向かい生き抜いていく過程で身につけていく生きるための知恵、氷河期後期、氷が溶け始めることで飛び飛びになってしまったアリューシャン海峡を決死の覚悟で渡っていくストーリーなどがサイレント・ヴィジョンとなってありありと展開していく。
グループの中心は老女シャーマン、体力が尽きてその地に眠るシャーマン。次のシャーマンの誕生。旅の途中、意見が分かれ別の地へ向かう人々。少しずつ人々は別の道へ分かれながらも、何十年もかけて暖かい恵みの大地を探し求める旅は続く。北米に入り定住するもの、中米、南米をめざし旅を続ける者。世代は代わっても人の心は変わらない。一万年にわたる人々の流れが一瞬にして現れて消えた。人間の血の流れ、一つだということを体感する。人種による終わりなき戦いの愚かさに胸が締め付けられる。自分の親であったり兄弟であったりする、出所を同じくする者たちが闘いあってきた、悲しい人類の壮大な流れを私は見詰める。その果てしなき時間の中で、私は旅の中心であるシャーマンであった時もあったのかもしれない。現在の私は、時の流れを逆行して自分探しをしていることに気付く。自分探しはまた地球人類の源への旅でもある。昨夜見たヴィジョンの意味を考える。これから先、何度か北海道を体験し更に北方へと進んでいくのだろうか。今日その答えは解らないけれど、自然に解る日が来るだろう。私は「今」という瞬間の連続の中を興味深く生きていくのみ。

小樽の町並みを走りながら見る雪景色、建物、町の雰囲気が妙に懐かしい。この景色はカナダでありアラスカを思い出させる。以前仕事で訪れたそれらの町や建物、触れ合った多くの人々がヴィジョンとなって眼前を流れていく。これまで生きてきたどの一瞬もまるでジグソーパズルのワンピースようで、霊性への気付きの旅は宇土神宮からスタートしたと思っていたのだが、誕生以来の総ての体験がどこかで今日と共鳴し、私の生命を創造していることに大きな感動を覚える。知り合う人、訪れた土地、読んだ本……過去の人生が急に色づき始め、今日の私を補ってくれる。偶然はないと言われているが正にそれを実感する。起きてくる出来事の意味を知る時期がずれるだけで、誕生以来の、あるいはもっともっと溯って宇宙創生時からの総ての出来事が今日への道を創っている。私の旅はまだ途中、これから創造する自分発見への旅、人類の源への旅はまだ埋まっていないピースを探しながら、壮大な絵を創っていく旅であることを了解する。今、ここに肉体を持ち、生きているということに対し我がことながら畏敬の念を持ち感謝する。

手宮洞窟はフゴッペと同じ状況であり、着いた時は一面の雪景色。去る時は太陽が輝いており、雪はきれいに消えていた。千歳空港へ向かう途中、「龍宮神社」という標識が目に入る。参拝する。「ママにようこそと龍子姫が言ってるよ。」と晶美。小さな祠の中で美の守護神が笑っている。秋田、田沢湖で私をサポートすると言ったあの龍子姫だ。懐かしい。田沢湖の美しい水がヴィジョンとして現れる。「この水を人類に役立ててください。そうしてもらえるなら私はあなたをサポートします。」と言われたことを思い出す。
水、湖の水、大地の水、海、大気、雲…人間、動物、植物…総ての水の流れ、水が生命のこの地球、二日間の旅の終わりは水の再生への祈りとなる。本殿を撮影しようとファインダーを覗くと本殿の周囲は青と紫の光で囲まれており美しく輝いていた。水の蘇生は人間の意識変革にかかっている。私はフェニックスとしてこれから出会う人達にフェニックスの卵を産んでいくという山形でのヴィジョンを再度胎に入れ千歳空港へ戻る。夜空に大きくて強烈な光を放射している満月の姿は格別である。大気が澄んでいるからだろう、東京で見る満月とは異なっている。月光に癒され、心も身体も満ち足りていく。連綿と続いていく自己の生命の尊さを静かに味わい尽くし、飛行機は豊かに脈動する肉体、感情体、意識体、霊体を調和させた「私」という名のエネルギー体を羽田へ運んでくれる。この宇宙に偏在するすべてのエネルギー体に深く感謝する。

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